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稚内の石川県人 《2003年(平成15年)4月8日》
3月16日、私は浜森辰雄元稚内市長の米寿をお祝いする会に出席するため稚内に向かいました。その日の稚内は吹雪でした。私が乗った全日空機は上空を旋回し、天候の回復を待っていました。「吹雪がやまない場合は千歳に向かいます」。機長がアナウンスした時、私は昭和45年ごろ、この地を初めて訪れた時のことを思い出しました。故中川一郎氏に請われ選挙の応援に出向いた私は千歳から車に11時間揺られました。行けども行けども目的地は地平線の彼方。疲れ果てた私は、応援を引き受けたことを少し後悔しました。
しかし、その旅が私と浜森さんとの深く長いお付き合いの始まりでした。目的の講演を終えた私を歓迎してくれたのは、そのあとの石川県人会の歓迎会でした。おじいさんが根上町出身だという当時、市長でご活躍中の浜森さんを先頭に、選挙の演説会場に集まった人の5倍の約500人も集まってくれました。

当時、稚内には石川県ゆかりの人が人口の半分もいたそうです。県人会のメンバーには、七選の浜森市長だけでなく市議会議長、商工会議所会頭など町を代表する人が顔をそろえていました。そして北前船や屯田兵として渡ってきた、石川県出身者が漁業や道路工事など厳しい仕事で生活を支え、この町を築いてきたことを教えてくれたのです。

30数年前のことを思い出していると、飛行機は徐々に降下し始めました。眼下の雪雲に切れ目が見え、稚内の街が光っています。飛行機はゆっくりと滑走路に降りました。「妻の遺影に無事にお付きになるようにお祈りしていたんですよ」。出迎えの浜森さんがこう私に話し掛けているうちに、空がかき曇り、再び雪になりました。空港から街に向かう車は、もう前が見えないほどの猛吹雪です。復路の便は欠航。わずかな晴れ間をついた奇跡的な着陸でした。
東京ー稚内を1時間40分で結ぶこの全日空機は、かつて6月から11月までの季節運航でした。浜森さんから「何とか冬でも飛べるようにしてほしい」と頼まれ、通年運航のお手伝いをさせていただいたのです。東京と結ぶ航空路は1日1便。こんな吹雪の日でも、地元の利用客を中心にほぼ満席です。この空の足は稚内の人々にとってなくてはならないものとなっているのです。浜森さんを訪ねるこの機会に、ぜひ乗ってみたいと思っていました。その縁もあって私の飛行機が無事に着陸できたのかもしれません。
こうして私は浜森さんの米寿のお祝いに出席することができました。祝宴を中心になって準備なさったのは、浜森さんが仲人した469組もの夫婦でした。出身校、早稲田の後輩たちも駆けつけ「都の西北」を唄うと、浜森さんは涙で顔をくしゃくしゃにしていらっしゃいました。多くの人に慕われる浜森さんのお人柄がよく表れていたアットホームな祝宴でした。
翌日、東京で正午からの講演の予定があった私は、その日午後10時発の夜行列車で稚内を離れなければなりませんでした。狭い寝台に揺られ、札幌まで8時間。決して楽な旅ではありません。しかし、郷土の先輩の喜ぶ顔が見られたことは何ものにも代え難いものでした。「いつまでもお元気で」と祈りつつ、短い訪問を終えたのです。
今回の旅で私は北海道の広さをあらためて実感しました。また、飛行機とはいかに便利なものかを感じました。わずか東京から100分の稚内が、夜行で札幌、そして早朝札幌から千歳まで電車、千歳から羽田へと飛行機を乗り継ぎ、お昼の国会での講演にやっと間に合うという遠い北の果てなのです。かつて稚内は漁業で栄え、とても豊かな町でしたが、今は多くの地方都市がそうであるように、若者が都会へ出てしまい過疎が進んでいるそうです。しかし、その北の大地には石川県の血を引く人たちが元気にたくましく暮らしています。そして、どうやって町を盛り立てようかと真剣に考えています。私はいつまでもこのご縁を大切にしたいと思うと同時に、北の果てで暮らす人々のために政治はどうやったら光を当てることができるかをあらためて考えさせられました。
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