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森議員、がん手術前に心境語る 《2002年(平成14年)7月16日》

森議員は7月16日から前立腺がんで都内の病院に入院することになりました。森議員に入院前の心境などを聞きました。
 

― 7月2日に突然、病気を公表されて驚きました。

 この度は突然のがんの公表で皆さまにご心配をおかけしました。東京や、選挙区の事務所に多くの方々からお見舞いや激励の電話等を頂き、有難くお礼申し上げます。
 ご存知の方も多いと思いますが、私のものは「前立腺がん」で、60歳以上になると多くの人が患うそうです。決して楽観はしていませんが幸い転移もなく、がん細胞を除去すれば、これまで通り健康になりますので極めて平静でした。

― 病気が発見された時の心境はどうでした?

 もともと実母をがんで亡くし、父もがんでした。がんは体質的に遺伝する要素があると聞いていましたので「いずれ私もなるだろう」という思いはずっと致しておりました。父が最初にがんを患ったのは50代半ばで、私もその年齢に達したころから定期的に検査を受けていました。実際、父の年齢で弟が先にがんになり、自分なりに覚悟はできていました。

― 病気が発見されるまでの経緯を教えて下さい。

 数年前、PL東京健康管理センターでいつも通り定期的な検査を受けたところ、前立腺の腫瘍を示すPSAマーカーの数値が高いという結果が出ました。
 一度専門医の検査を受けるように、との医師の指示で虎の門病院に4月7日、検査の予約を入れました。
 ところが、思いがけなく4月5日に突然、内閣総理大臣に就任することになりました。総理大臣ががんの検査を受けたと分かったら大変なので、検査を止めようかとも思いましたが、初の所信表明を衆、参両院で行い、そのあと予定通り検査を受けました。
 結果、がん腫瘍は認められず、3ヵ月に一度はPSAの測定をするよう指示を受けました。医師から「ここ1年は大丈夫」と言われ、私は「ああ私は運のいい男だ。天は私を見捨てなかったなあ」と思いました。記者会見で総理に就任した心境を聞かれ、「天命だ」と強調したのは病気のことも念頭にあったからでした。
 昨年4月に総理を辞任し、12月になって虎の門病院で精密検査を受けました。体細胞を調べたところ、がんの症状が出ているとのことでした。  
 転移していると大変なので再度、今年の1月7日に入院し骨などの検査をしたところ、転移は一切認められませんでした。医師からは「内分泌療法でPSAの数値が下がるのを見ましょう。そう急ぐことはないが放って置いてもいけないので、がん細胞はいずれ取った方がいい」と言われました。それ以来、時々、ホルモンを投与する治療を毎月受けてきました。

― 入院の日を7月16日にした理由は何ですか。

 がんだと分かってから、ずっと手術の日程をどうするか考えていました。
 国会が混迷している時は避けなければいけないと思っていました。今国会が7月末まで延長されることになり、重要法案のうち健康保険法改正案、郵政関連法案が成立するめどが立ちました。さらに、内閣改造や自民党役員人事は、小泉総理・総裁の判断ですが、秋ごろに行われるのではないかと思います。人事になれば、清和政策研究会の会長としてやらなければいけないこともありますので、そういう国政上の日程を考えた上で7月の中旬が一番いいと考えたわけです。
 もう一つ理由があります。実は私の誕生日が7月14日なのです。人生の新たな第一歩を踏み出すという意味で、誕生日の前後にできればなおいいとも考えました。

― なぜ病気を公表したのですか。

 いま、清和会の会長である私には各メディアの記者さんが常時付いています。朝も夜も自宅にまで取材に来ます。入院で二週間近く姿を消せば、その記者さんからせんさくを招きます。いろいろ憶測で間違ったことを書かれるより、きちんと説明しておいた方がよいと考えました。家内もその方がよいと言ってくれました。

選挙区への信頼で公表

― ただ、一般的に政治家は病気を隠すのが通例です。政敵に足を引っ張られ、政治生命にも影響しかねないと考えるからですが、よく公表する気持ちになれましたね。

 幸い私は選挙区に恵まれました。本当に有難い石川県の皆さんに大事にされ、三十二年間、政治活動をやってこれました。総理の座にも就くことができ、政治家として順調に歩んでこられたのも、私を信頼してくださった選挙区の皆さんのおかげです。
 私の足を引っ張りたい、追い落としたいと考えているのは政敵やその周辺でしょう。私は体にメスを入れるのは初めてですが、こうしたことを素直に語れるのも、私を育ててくれ、信頼してくれている選挙区の皆さんを信頼できるからです。心から感謝しております。

― 石川県関係者で公表前に病気を伝えた人はいますか。

 石川県内の方には事前にだれにも病気のことはお知らせしませんでした。私の母にも伝えていませんでした。本当は後援会長をはじめお世話になっている皆さんには伝えておかねばいけないのですが、かえってご心配をおかけするだけだと思い、あえてお話をしませんでした。その分、公表した当日は夜中まで自宅と事務所に電話が鳴りっぱなしでした。

― 派閥の総会で公表する形を取られたのはなぜですか。

 どういう形で公表するかもいろいろ考えました。最初は記者会見でもしようかと思いましたが、家内が「あまり大げさにするのはよしなさい」と言うので、中川秀直氏と相談し、清和会の総会で仲間の皆さんに説明することにしました。清和会の総会の席上なら、マスコミの皆さんも取材に来ていますから自然体で知らせることができると考えたからです。総会は通常、毎週木曜日に開くことになっているのですが、今回は中国に訪問する予定もあり、前倒して2日の火曜日に行いました。

― 病気かもしれないという不安を抱えながら総理時代を過ごしたわけですが、どういう思いだったのですか。

 総理時代は精神的な圧迫と激務のため「いつか倒れるんじゃないかな」という心配もありました。反面、「いつ辞める事態になってもいい。毎日、全力投球やるだけだ」という思いもありました。当時、新聞記者とのあつれきが生じてもあえて妥協をしなかったのは、そういうある種の開き直りの心境でいたからです。
 野党やマスコミは失政ではなく、ちょっとした言葉尻をとらえて私を悪いイメージに仕立て上げてきました。「男の意地と政治家としての誇りを守らなければならない」と自らに言い聞かせ、奮起させていました。いつ退陣しても「後世に花が咲く何かを残したい」という強い思いが私を支えていたのです。
 ただ、私は最初から「森内閣は短命に終わるだろうな」と思っていました。このため、私は「まず小渕さんがやり残したことをしっかり実らせよう」と考え、沖縄サミットや改革と並行した景気対策を着実にやり遂げることに専念しました。教育改革、省庁再編も軌道に乗せました。
 幸い20世紀から21世紀の橋渡し役でもありましたので、20世紀に生じた最大の懸案の一つであるアフリカ問題にも取り組みました。日本の総理でサハラ以南のアフリカに足を運んだのは私が初めてでした。
 この度のカナダ・カナナスキスサミットでアフリカの開発行動計画が採択されたのも、沖縄サミット以来の私の信念でした。またそれより先に日本外交の理念とも言うべき貧困、紛争といった人間の存在自体への脅威を克服すべく「人間の安全保障委員会」を提言しました。特にアフリカ諸国を中心とする感染症問題は「人間の安全保障」への直接の脅威となっていたからです。
 総理辞任後も国連エイズサミットに出席、自ら「エイズ基金」を世界に呼び掛け、昨年のジェノバサミットで実現の運びとなりました。私が蒔いた種は今、少しずつ芽が出ています。沖縄サミットでまとめた「IT憲章」は海外から高く評価されています。

「いつまでも休んではいられない」

― 手術後の政治活動への気持ちをお聞かせください。

 病気になったからといって、私の政治に対する情熱や姿勢は全く変わりません。まだ、21世紀社会への改革を進め、わが国の名誉ある地位を守らねばなりません。戦後50年、どこかに置き忘れた「人づくり政策」を何としてもやり遂げたい。さらに、石川県の基礎を固める仕事も残っています。北陸新幹線や小松白川連絡道路など課題が多くあります。
 当然、小泉内閣をしっかり支える役割もあります。小泉内閣をつくった責任の一端は私にもあります。小泉−森とまとめ上げた改革のボールを小泉さんにゴールラインを突破してトライしてもらわなけらばならないのです。そうそういつまでも休んでいていいというわけにはいかないのです。
 逆にこれまで以上に「無私」の気持ちで政治に取り組もうという思いが強くなりました。まだゆっくり休むわけにいきません。これまで以上に言うべきことは言う。やるべきことはやる。そういう気持ちで国政に臨みます。
 これからもご支援、ご鞭撻をよろしくお願いします。
 (了)



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